tabikuraの、ここだけの話。

【コーヒーが美味しくなる情報を発信】日本語だとなかなか見つからない、海外の最新コーヒー情報を噛み砕いて、情報発信しています。

【自己紹介】消防士からバリスタに転職した理由と、いま感じていること

 

自己紹介のページを作ってみました。

  

tabikuraの基本スペック 

 

tabikura 

1989年6月生(現29歳)、AB型、身長180㎝、足のサイズ27.5㎝

神奈川生まれ、三重育ち

元消防士で現在バリスタ 

ブログ"tabikuraの、ここだけの話。"を運営

 

f:id:itachaaa167:20171128141037j:image

 

 

好きなもの/こと

読書、映画、旅、絵を描くこと、サッカー観戦、

メモすること、誰かとお酒を飲むこと、

海、暖炉、ソファー、木の床、文房具、革製品、巨大な建築物、

犬、猫、ゾウ、馬、恐竜、ゴジラ

白米、野菜、漬物、浅煎りのコーヒー、お味噌汁、クラフトビール、ウィスキー、

キャラメルコーン、大福、チーズケーキ、

マイケルジャクソン、Def Tech、yahyell、King GnuBill Evans

紅の豚北の国から王様のレストラン

有吉弘行バナナマンかまいたち

姿勢の良い人

 

苦手なもの/こと

MRI、酸素カプセル (閉所恐怖症)

大人数 (ゆっくり話したい)

 

性格

マイペース、楽観主義者、平和主義者

思いついたらすぐにやる

 

 

経歴

 

2018.11 - 日本帰国

 

 

2017.11 - 2018.11

ニュージーランドの首都ウェリントンでワーキングホリデー。

f:id:itachaaa167:20180701132952j:image

カフェ"Frank's Newtown"でバリスタとして勤務。

 

 

2016.10 - 2017.10

オーストラリアのメルボルンでワーキングホリデー。

 

ローカルレストランのウェイターやキッチンハンドの仕事をしつつ、学校で5週間のバリスタコースを受講。

コーヒー作りの基礎を学んだ後、カフェで拾ってもらい、バリスタとしてのキャリアをスタートさせる。

 

10軒のカフェでの勤務を経験。

f:id:itachaaa167:20180527114727j:plain

 

渡航時は「ファームでセカンドビザを取得し、2年間オーストラリアへ滞在するぞ!」と意気込んでいたものの、いざバリスタとして働き始めてみると、コーヒーの奥深さに魅了される。

 

「2年間のうちの4ヶ月をファームに使うのなら、このまま1年間バリスタとして働いて、もう1年間違う国でバリスタとして働いたほうがきっとおもしろいな..」

という風に考えが変わり、1年間でメルボルンを離れる。

 

 

2016.4 - 2016.9

京都の某ゲストハウスで住み込み勤務(フリアコスタッフ)、同時に他店舗のゲストハウスに併設するカフェバーでバーテンダーとしても働く。

 

空き時間にはオンライン英会話にも取り組み、日常会話や接客英語を磨く。 

 

 

2013.4 - 2016.3 

兵庫県の某市で消防士として3年間勤務。

 

2年間は救急隊員として救急車に乗り、1911件の救急出動を経験。3年間で退職。

  

 

2012.1 - 2012.7

予備校時代。

6ヶ月間の猛勉強の末、中学生の頃からの夢だった消防士になる。

 

 

2008.4 - 2012.3

京都産業大学 経済学部。

体育会アメリカンフットボール部に所属していたものの、下手くそなうえに怪我ばかりして全然試合に出場できず、ポンコツキャラのまま4年間終わる。

 

 

以下ぼくの人生についてだらだらと書いてます。

時間ある方は読んでみてください。

 

消防士時代のこと、感謝の気持ちには種類があること、退職してからのこと

 

憧れの消防士

消防士は中学校のときからずっと憧れの仕事でした。

かっこいいし、公務員だし、直接人の役に立てる仕事だし、女の子にモテると聞くし(笑)

根拠もなく自分は絶対に消防士になるんだと思っていました。

 

そして大学4年生の12月の冬。

4年間続けたアメフトをやっと引退したとき、ぼくは就活も何もしてませんでした。

消防士になろうと思っていたからです。

 

今振り返ると、本当は口だけで、何もせず現実から逃げていただけだったんですね。

 

まわりは就職も決まって、"うわ〜、4月から社会人や〜"と盛り上がっているなか、

何も決まっていない自分の将来。

 

いよいよやるしかないと腹を決めて、予備校へ入り、猛勉強を始めました。

 

始発のバスに乗ってマクドへ行って予備校が開くまで勉強、予備校開いたら自習室に一番乗りして勉強、予備校が閉まったらまたマクド行って勉強。家には寝に帰るだけ。

 

そんな日々を繰り返して1月、2月、3月と過ぎていくと、どんどん成績が上がっていって、実力テストの成績が予備校内で3位になったこともありました。

 

「いけるかもしれへん」

 

とそのまま勉強を続けた結果、7月にあった兵庫県の消防士の1次試験に引っかかり、体力試験、論文、面接を突破、気がつくと採用が決まっていました。

 

高校受験は失敗し第3希望の高校へ進み、大学受験勉強からは逃げて指定校推薦入学を選び、大学のアメフト部では4年間ポンコツキャラだった自分としては上出来すぎる結果で、

「正しく努力すれば結果は付いてくる」を初めて実感した瞬間でした。

 

本当に嬉しくて、心配をかけた家族に報告したときには思わず涙が溢れて、自分でも驚いたのをよく覚えています。

 

そして、ぼくは夢だった消防士になりました。

 

 

消防学校時代

4月から勤務が始めると、まずは半年間消防学校という寮生の学校に配属されて、訓練漬けの日々を送りました。

 

毎日毎日腕立て、腹筋、スクワットを何百回とやるので、みんな日に日にムッキムキになっていきました。

消防士は重い防火衣を着て、酸素ボンベ背負って、倒れてる人を火事場から引っ張り出して来る仕事ですから、それくらい体力がいるんですね。

 

鼻から3㎝先で教官や先輩消防士に怒鳴られることも度々ありましたが、

おかげさまで精神的にかなり鍛えられました。

 

消防学校は167人中17位という成績で、表彰はあと一歩のところで逃すという、自分らしいけど上出来な終わり方をしました。

 

消防署勤務

激しい訓練の日々を終え、消防学校を卒業すると、いよいよ消防署での勤務です。

朝9時から次の日の朝9時まで、24時間体制で働きました。

 

しかし半年間の訓練を終えたとはいえ、見習いなので、現場へ連れていってはもらえますが、基本的に何もさせてはもらえません。

雑用をしながら、先輩や上司の方々に訓練を見てもらう日々が続きました。

 

そんなある日、救急車に乗せてもらえる機会がありました。

患者さんの搬送が終わった病院からの帰り道、ある上司の方が、

 

「救急はすごい仕事やぞー。全然知らん人の家に入って行って、患者さん出してくんねんから。そして患者さんの症状はもちろん、生活環境や家族関係も考慮したうえで、一番ええ病院に連れてってあげる。そんな仕事他にないぞ。しかも出動件数は多い。現場は行ってなんぼの世界やからな!」

 

と救急隊員の仕事の魅力を語ってくれました。

 

現場は行ってなんぼかー!かっこいいな!

 

と、単純な性格なぼくは、その後に「異動希望調査」として渡された紙に、その市で最も忙しく誰もが敬遠する「本署 救急係」を第一志望として書いて提出しました。

 

すると次年度から、見事にその本署の救急係へ異動が決まり、ぼくは本当に本署の救急係に配属されました。

 

 

2年間の救急隊員

本署で救急隊員になってみると、生活が激変しました。

 

署にいることよりも出動していることの方が多く感じられ、1日だいたい10件、多いときは15件ほど救急出動しました。

 

救急出動は1件あたり40分-1時間掛かり(長い時は数時間)、帰署後は次の出動準備を整え、出動報告書を処理しなければなりません。

 

患者さんを病院に運んで、その帰り道に別の救急出動指令が入ることも度々あり、そうなるとなかなか帰れないので、報告書はどんどん溜まっていきます。ご飯ももちろん食べることはできません。

 

人の命を預かってる仕事なので当たり前なのですが、指令が入れば風呂に入っていようがトイレで大をしていようが食事をしていようが仮眠をとっていようが、関係なく飛び出して行って出動しなければなりません。

 

血まみれになったり、汚物を処理したり、見たくないものを見なければいけなかったり、本当に大変な仕事でした。

 

結果的に2年間救急隊員として救急車に乗り続け、1911件の救急出動を経験しました。

 

 

"ありがとう"の種類

病院へ患者さんを運んだあとに、患者さんや家族の方から「本当に助かりました、ありがとうございました」と言ってもらえることもあり、その言葉に励まされて、仕事へのやりがいを感じることは何度もありました。

 

でも、その「ありがとう」についてですが、今バリスタをやっていてお客さんに言ってもらえる「ありがとう」とはまた少し違ったものだと感じています。

 

救急隊員は、人の命を預かって、患者さんの症状に合った適切な病院へ搬送することが仕事です。世の中に必要不可欠な仕事です。

患者さんからは「助けてもらってありがとうございました」という風に声を掛けてもらえます。

 

一方でバリスタの仕事はというと、人々の生活に寄り添って、なくてもいいけど、あったほうがもっといいよね、というような価値を提供するのが仕事です。

 

なので、そこでお客さんに言ってもらえる「美味しいコーヒーをありがとう」「あなたと話せて良かったありがとう」 は救急隊員のときに言ってもらっていた「ありがとう」とは種類が違うんですね。

 

なんか変な話なんですが、救急隊員をしながら、「ぼくは人々の生活に寄り添って、何かを生み出すことで感謝されたいな。違うカタチで社会に貢献したいな。」と考えるようになっていました。

 

 

多くの死に触れて変わった死生観

また、救急出動をする中で、悲しいんですが必然的に多くの死に触れました。

死亡事案の多くは到着時には手遅れなことが多かったのですが、

時には目の前で亡くなっていく方もいらっしゃいました。

 

そのことで、死も人生の一部なんだな、ということを身に沁みて思うようになりました。

そして、後悔は少ない人生を選ぼう。自分がやりたいことやろう。という風に気持ちが傾いていきました。

 

結果的に、"人の生活に寄り添って、価値を提供したい"、"人生を後悔したくない"という2つの想いが、退職の決断へと繋がりました。

 

そのへんのアツい気持ちは、退職したての頃に書いたこのへんの記事を読んでみて下さい。

すごく新鮮な文章で、「おお、若いな」と、いま読むと心が震えます(笑)

 

 

 

振り返ると、初めて乗った救急車の中で、上司の方がぼくに"救急隊員はやりがいがあるぞ〜"なんて話をしなければきっと救急隊員にはなっておらず、結果的に未だに消防士として働いていたのかもしれません。

 

人生って不思議だなあと思います。

 

 

バリスタという仕事と自分

ワーキングホリデーで出会ったバリスタという仕事ですが、自分に向いている職業だと感じていますし、良い仕事に出会えたなと思っています。

 

ぼくはコーヒーが大好きですし、自分が好きなものを仕事で扱って、それをお客さんに提供して、「あなたのコーヒー美味しかった、ありがとう」と直接フィードバックをもらえるのは、バリスタ冥利に尽きます。

 

何より、人々の生活に寄り添う中でいただける「ありがとう」という言葉は、救急隊員のときに一種の憧れを抱いていたものだったので、やはり嬉しいものです。

 

 

現在はニュージーランドウェリントンにいて、先日からカフェでバリスタとして働き始めました。

お客さんからたくさん嬉しいフィードバックをいただけるよう、楽しみながら働きたいと思います。

 

 

こんな人のブログですが、どうぞよろしくお願いします。

 

 

tabikura 

 

 

Twitter(@tabikuralog)ではバリスタライフ、成功したこと、失敗したことつぶやいてます。