2015年10月15日、ぼくはカンボジアにいた。
ベトナム・カンボジアを7日間、チケットから宿まで自分で手配した、正真正銘の海外初一人旅だった。
海外の土地のニオイに高揚し、夢だったアンコール遺跡群を見て感動し、150円でびっくりするほど美味い朝食が出てくる店を見つけ、トゥクトゥクの運転手と値段交渉の駆け引きを楽しんでは、ここが日本ではないことを感じた。
求めていた全てがそこにあった。
なのに、全てがどこか味気なく、どこか退屈だった。
ぼくはある映画の言葉を思い出していた。
"Happiness only real when shared."
これは映画「Into the wild」の主人公の言葉で 、
「幸福が現実となるのは、それを分かち合った時だ」という意味。
映画でこの一節に触れたときは"たしかにそうやなぁ、ええ言葉やなぁ"くらいにしか感じなかったのだけれど、
初めて一人で海外へ出たとき、この言葉は真理へと変わった。
「なるほど。この味気なさの原因は、何をしても、誰とも感動を分かち合うことができてへんからなんか。」
そう思った。
いつも分かち合える誰かがいて、分かり合えることばがあった。
たしかに、楽しかった思い出を振り返るとそうだ。
海外旅行へはトルコとタイにも行ったことがあったが、どちらも仲の良い友人と一緒で、
言葉が通じない環境、ユニークな建物、口にしたことのない食べ物やお酒を前にすることで、ぼくらのテンションが上がりっぱなしで、ずっと楽しかった。
「美味しいなあ!」「キレイやなあ!」と、異文化に触れた感動を友人と分かち合っていた。
一人旅は日本国内でもしたことがあったけれど、
そのときはヒッチハイクをしてみたり、ゲストハウスに泊まり、バーで話し相手を見つけては、酒を飲んで遅くまで話し込み、お互いのくだらない話をしては盛り上がった。
やっぱりそれらのことをして楽しかったのも、感動を分かち合ってくれる人と、
感動を分かち合う手段としての「ことば」がそこにあったからなんだ。
世界に出ても日本人が固まっている理由
世界一周をしている人や、ワーホリで海外へ出ている人の中には、日本人同士で固まって動いている人が多くいると聞く。
その理由も、そういうことだと思う。
みんな世界に触れた感動を分かち合いたい。
でも、それを分かち合う手段は"日本語を話すこと"しかないし、元々の価値観も近くて一緒にいて楽だから、ということで日本人同士が一緒に固まる。
これを悪いとは思わない。
言葉の壁を感じて一人で楽しむ術がないのなら、一人よりもみんなと感動を分かち合ったほうがずっと楽しいし、そうなるのは自然な流れだ。
ぼくもカンボジア旅行のときは「こんなことなら日本人の多い宿に泊まるべきだった」と後悔した。
というか、それぞれが"これが楽しい!"という手段を納得して選択できているならそれでいいと思う。
ただ、せっかくの世界一周である。理想は身も心も海外へ置くことだ。
訪れた国で出会った人とゆっくり話をし、互いの国の考えや文化を知り、
地球の歩き方には載っていない、
現地の人しか知らない場所やお店を紹介してもらい、
気の向くままに動き、
たどり着いた場所で、また違う誰かと出会った感動を共有できたなら、
きっと得られる体験も喜びも、何倍にもなるんじゃないだろうか。
様々な国の旅人とも出会い、それぞれがどんな旅をしてどんな出会いがあったのか語り合い、また再会を誓って別れる。
東京オリンピックで再会しよう。なんて言ってみるのもいいかもしれない。
そんな旅ができたらなと、想像するとワクワクが止まらなくなる。
だから、英語が必要だ!
そんな理想の世界一周を果たすには、感動を分かち合うための手段である言語の習得が必須だ。
もちろん英語である。
欲をいえばスペイン語も習得したいが、とにかくまずは英語だ。
それも、自分の考えを、難なく流暢に伝えることができるレベルの英語力を手に入れる必要がある。
世界一周を目指すぼくは、手段は色々あるが、環境を変えることで英語を身に付けようとしている。
5月からは京都でゲストハウスの住み込みの仕事を、
9月からはオーストラリアの日本人の少ない田舎町へ2年間、ワーホリで渡航予定だ。
1年間の独学の甲斐もあって、簡単なコミュニケーションならとれるようになってきたので、
今後はそういった英語の環境へどんどん身を投じていきたい。
がんばるぞ!
それでは今日はこのへんで!